私は心にブレーキをかけている事すら忘れ、どんどん彼へと心を寄せて行った。彼の言わずとも、私の気持ちを察知してくれる感性にはいつも脱帽する。私と素直に向き合ってくれる事に、何だか、感謝すらしてしまう自分がいた。私の人生が、輝きだしたと言っても過言ではない。それは、凄く、私らしくない感情だ。今もなお、友人たちに「あなたはタフね。真似できないわ」などと言われる時がある。 多分、自分に自覚なく日常をこなして、無理している間に感覚が麻痺しているのかもしれない。その事に、幸せを感じる事もあったが、今の幸せに比べたら、ちっぽけなものだ。
彼はよく、私を食事に誘ってくれた。その中でとても印象に残っているお店がある。それは湖の近くにあるレストランだ。とてもレストランがあるとは思えない小路を通り抜け、私の気持ちはまるで子供が遠足に行く前日のようにぐにゅぐにゅと高まっていった。小路を通り抜けた先に見落としそうなぐらいにひっそりとたたずむ看板があった。その看板にはここの主のイニシャルらしき「R」の文字に葉が生い茂っていて、主張こそしないが、流される事はないといった感じの緑色が使われていた。看板から視線を外し、上を見上げると、そこは古い民家を組み合わせて和洋折衷に仕立てられた家で、とてもシックな外観だ。いつか私が住んでみたいと思っていた家がそこにはあった。私たちを案内をするレストランの主はその重厚な家の造りからは想像もつかないほど、若く美しい、一言二言の会話の中にも聡明でありながらも謙虚な印象を感じさせる。
出てきた料理も主に似ていて、シンプルな組み合わせだけれども、とても味の純度が高い料理で、私の言葉では表現できない美味しさだ。今までに、色々なお店を巡り、様々な料理を味わってきたと思っていたが、このレストランに匹敵するものはない。心惹かれる人との食事である事がその味わいに深さと喜びを加えていた。
素晴らしいレストランでの食事を終え、私たちは、湖の周りを散策し、ホテルが経営している喫茶店で一休みをした。
たぶん、この時だろう、私の心は完全に彼に奪われたと実感したのは。
彼は喫茶店に入ると少し、そわそわして、視線が泳いでいた。ホテルのボーイが案内した席を見るなり、席を変えてもらえないかと言った。その言葉の端はしに少し、怯えと闇が感じ取れた。明らかに最初に案内された席よりも、明らかに位置が悪い席に案内されると、彼の目は少し落ち着きを取り戻していた。私はどうしてもその事が気になった。私は彼に尋ねた。彼は水を飲んでから、私の目を見据えた。
さっきの席は彼女が亡くなった後に、彼と友人が来た際に座った席だと。もし座っていたら、また思い出してしまうかもしれないと。私は彼の心をのぞいていたはずなのに、いつの間にか自分の心をのぞかれている気分になった。まだ、彼の中には彼女が生きていると感じた。彼の心の曇りはまだ晴れていない。私は彼の話を聞きながら、亡くなった彼女と、この場所へ来た友人に嫉妬した。嫉妬してしまうほど、彼の事を考えていた。今までに誰かに嫉妬する事などなかった。嫉妬するほど他人に依存する事自体が考えられなかった。でも不思議と心は安らいでいた。成るようにしか成らない・・・そう思った時、私は決心した。
これまで、彼と逢瀬を重ねてきたが、朝まで一緒にいる事はなかった。それは私が自らに課した一線。本当は、時間の許す限り近くにいたい。私は彼に言った。
今度、娘の用事があって実家に帰らなければいけない、その時に、一緒に来てくれないかと。