彼には過去にHIVに感染した彼女がいた。少しずつ気持ちを溶けあわしていた頃そう彼は告白した。さすがに、動揺したのを今も覚えている。彼もそうなの?と、動揺したのだ。
しかし、事実は違って、彼女は違う男性に感染ルートを持っていた。当時では感染率のもっとも高いナイジェリア出身の彼からの感染だった。その彼女を後に受け入れたのが彼だった。誤解しないで欲しいのは、彼はキャリアではないという事だ。純粋に、プラトニックに彼女を愛したという事実。
この告白の最中は、彼の目が少し開放されていたように思う。今もその子が彼の中に満ちている、そう思えた。一つ屋根の上で生活をし、息を引き取るまで見届けた彼の話は想像以上に壮絶に思えてならず、人生の生き抜く労力をその時間に費やしたのだと判った。
彼女とは大学時代に知り合った。友人の「HIVの子が居るんだけど、会ってみない?」その一言が彼と彼女を引き合わせる事になった。運命とは悪戯だ。彼女も到底彼が自分の最後を見届ける人になるであろうとは思いも寄らなかったはずだ。この出会いが、運命ならばどの位の確立なのだろう。私と彼が出会う確立よりも遥かに高い事は確かである。
この運命の出会いから間もなく、彼女の大学も病院も近い事から彼は彼女と一つ屋根の下で生活を始めた。彼女の愛犬も一緒に。
彼女との生活始めたきっかけを彼はあまり話したがらずに居る。だから、定かではないがお互いが強烈に惹きつけ合ったとしか言う事が出来ない。愛とか恋とかそんな小さな事ではなくて、死を確定された彼女の生き様が彼を飲み込んだのかもしれない。そう思えてならない。
二人の別れが確約されたスタートだ。悶々と生活をしている私たちとは違う。ゴールがある毎日が始まる。今日か明日か・・まだ若い二人には時間が早く感じられた事だろう。
彼は、彼女に大量の薬を飲ませなければならなくなった。命の薬。彼女の主治医とも密にコンタクトを取りながらわずかな時間をも延ばす努力を惜しまなかった。自分の事は二の次で居たのは彼の話す顔を見ればすぐに察知がついた。
彼女は、動けなくなるギリギリまで大学に通い普通の女子大生をしていた。普通だから楽しく、コンパに行ったり羽目を外したり副作用で弱った体には辛かろう事を普通に行っていた。彼女が薬を忘れるとそこまで届け、飲まない彼女に頬を叩いてでも薬を飲ませた彼。
時には、レポートを書いたり同化した共同体のように彼女の世話を焼いた。
何一つ、周囲の友達と変わる事無く生活が出来たのだろう。幸せだったに違いない事は確かだ。彼女の写真を大切そうに見せてくれたことがある。その写真の中の彼女は本当に幸せで楽しくて仕方の無い屈託の無い笑顔でほほ笑んでいた。二人が幸せだったあの時間の写真。胸が痛くなった。
自分を病魔に冒したナイジェリアの彼からの手紙が途絶えたある日、彼女はナイジェリアの彼に会いに行きたいと、彼に懇願した。会って生きていると信じたかったのだろう。自分はまだ大丈夫、その目で確かめたかったに違いない。ボロボロの体で彼女と彼は本当にナイジェリアまで彼に会いに行った。日本とは反対の国に。
強制送還によって本国に帰された彼は、彼女だけに置き土産をしていった訳ではないであろう。他にももしかしたら居るかもしれない。そんなナイジェリアの彼に彼女が会いに行くのに彼は付き合った。複雑を通りこし、急がなきゃいけない状況に冷静に判断できなかったのかもしれない。これも彼なりの彼女に対する治療だと納得する他無い行動である。
現実はやはり残酷で、二人の目には葬られた彼の墓しか映すことが出来なかったのだ。立ちすくむ二人の姿が目に浮かんでくる。おそらく、赤茶けた砂埃の舞うその異国の地でこれから起こり来る現実を目の当たりにしたのだろう。乾いた空気もそれに見合う空気であろう。その晩、二人は何を話したのか?もしかしたら、言葉が無かったのかもしれないし会話も出来ないくらい憔悴しきった彼女の側に寄り添う事しか出来ない彼が居たかもしれない。
ナイジェリアの彼の死は、彼女を弱らせるスピードに加速したかもしれない。充分に認識していてもやはり怖いはずだ。素敵な思い出だけを思い出している彼女の書いた文章が残っている。ナイジェリアのその彼との事だ。日本人にはない優しさが彼女を夢中にさせた事は言うまでもなく、文面には彼の優しさが溢れている。気丈な彼女には心地よかったのだろと思う。しかし代償は大きすぎた。
それを見つめる彼の目が淋しそうにしているのが私には見当がつく。実際に向き合いながら生活を続けた彼の気丈な心も同じく弱っていったのかもしれない。
彼女は静かに息を引き取っていた。彼と愛犬との一つ屋根の下で。朝。一日の始まりに彼女は彼にお別れをした自分の抜け殻を見つけさせた。精魂果てた彼には涙は必要なかった。
ただ、ぬくもりのない彼女を見つめ自分にこの生活の終わりを告げた。
おそらく、あっけなく幕引きの日が来たのではないか。必死に彼女を看ていた彼は初めてのことで、悪化する彼女の病状に気が付く事が出来なかったかなかったはず。
入院を拒み、部屋に閉じこもっていたようにも取れる。その瞬間を逃すまいと。彼女は彼との一つ屋根の下を自分の人生の終わりを迎えるふさわしい場所に選んだのだ。
果たして、彼には何が残されたのか。精魂果てた心と肉体。最後まで必死になった時間を
ただ後悔する無常の時間。
この世から消えた彼女は、彼から何を奪い取っていったのか。愛する事もせず、ただ恩恵を受けて逝った彼女。彼の蓄積された疲労ですら、あの世には持っては逝かずに置いていった。
その瞬間、彼の自責の念との葛藤が始まり、愛する事をそして信じる事を拒み始める再スタートになってしまったのだろう。あの瞳の深さはこれが原因だと私は確信せざる得ない状況に追い込まれる事になった。